物語を否定する物語について考える
物語を否定する物語というものが存在します。
物理的に、または統計的に、または人間心理的に、物語でしかありえないような幻想を否定する物語です。
そういう視点を持ち込むことで、作品はより洗練され、よりリアルなものとなります。
しかし、このスタンスには正の面と負の面があり、用法と用量を守る必要があると僕は感じています。
今回はそれについて語ってみようと思います。
幻想が否定されることの意義
幻想を否定する作品の代表例が『ウォッチメン』でしょう。
「スーパーヒーロー」という幻想を否定した本作では、ヒーローは時に大量の警察官に抑え込まれ、時に冷戦の抑止力として政治利用され、時に回転ドアにマントが引っかかって命を落とします。
そして最終決戦の折には、戦いの最中で、敵役の野望がすでに完遂されていることが明かされます。
この徹底した「スーパーヒーロー」という幻想の否定は、その様式自体が美しく、また、同時に「アメリカン・ドリーム」という幻想を否定することで、極めて社会批判的な価値を生み出しています。
このフォーマットはピクサーの『Mr.インクレディブル』の下敷きにもなっていますね(原作は『ウォッチメン』の方が先)。
アニメ『ボージャック・ホースマン』では、ずばり「人生は物語ではない」という言葉がテーマとなっており、シビアな展開が多々あります。
特にシーズン4とシーズン5の落差が凄まじく、シーズン4のラストで前を向いて歩き始めたダメ人間のボージャックは、シーズン5で、それによって過去の悪行が帳消しになるかのような素振りを見せ、再び大きく後退します。
また、過去にボージャックを虐待していた母のベアトリスも、シーズン4では一瞬だけボージャックと通じ合いましたが、シーズン5では和解や謝罪どころか、なんのドラマもなく亡くなります。
このような「物語のような人生」という幻想の否定が、よりリアルな人生、よりリアルな孤独を描き出すことに貢献しています。
しかし、なんといっても幻想の否定の一番の機能は役割からの解放でしょう。
特に「王子様に救われるお姫様」という役割からの解放は、ポリコレの流れと噛み合うこともあって現在のトレンドです。
ディズニーは、『アナと雪の女王』では王子を悪役にして姉妹愛を押し出すことで、『シュガー・ラッシュ:オンライン』ではディズニー・プリンセスたちに選択的なアイデンティティを訴えさせることで、王子様の幻想を否定し、女性キャラクターの旧来の役割が義務ではないことを示しています。
『シュガー・ラッシュ:オンライン』で感じた問題点についてはこちら↓
幻想が否定されることの問題点
しかし、幻想の否定もいいことばかりではなく、問題点もあります。
まず、使い方を誤ると、作品に必要不可欠な幻想まで否定してしまうという問題。
『スター・ウォーズ EPⅧ 最後のジェダイ』は、シリーズの神話性を否定し、「みんなの物語」に変容させた作品です。
たしかに一定の意味がある試みだとは思いますが、個人的にはこれはアウトです。
詳しくは別記事に書きますが、シリーズの核となる幻想を否定することで、色々なものを崩壊させています。
なんでもかんでも幻想を否定すればいいというわけではないのです。
『最後のジェダイ』で感じた問題点についてはこちら↓
また、幻想の否定は、いきすぎると幻想の肯定を悪としてしまうというのも問題です。
役割を義務としているわけでも、偏見に基づいているわけでもない、「幻想を幻想だとわかった上で享受される幻想」が悪として排斥されるようになれば、それはディストピアです。
物語の役目は、幻想を否定する前に、幻想を叶えることにあります。
現実では叶わない環境、人物、冒険、恋、興奮、安らぎなどを与えてくれるのも、物語の重要な価値であり、それを忘れることは非常に危険です。
相対的な歩み寄りと住み分け
あらゆる物語(フィクション)は、突き詰めれば全て幻想(ファンタジー)です。
ということは、ファンタジーの裏返しはリアルではなく、リアリティのある別のファンタジーであるということです。
そこには相対的な違いしかありません。
例えば『キック・アス』は『ウォッチメン』とはまた別の切り口から「スーパーヒーロー」をパロディ化して、ギャングに負けることもありえる存在に設定していますが、最後にはスーパーテクノロジーが大活躍します。
逆に『ブレイキング・バッド』なんかは、成熟したカルテルの面々と渡り合った主人公が、最後には話の通じないネオナチのバイカー集団に追い込まれます。
どちらも魅力的なモーメントです。
幻想の否定は、必然性的に部分的で、かつ、それでも十分効果のあるツールであり、フィクションの中において、ファンタジーとリアルは歩み寄りができるものなのです。
僕は、例えばあまりにも男性の理想の化身のような女性キャラクターばかりの作品がどちらかというと好みではありませんし、そういう幻想を回避しないと語れないものがあるとは思いますが、だからといって、その回避が極端である必要はないと思います。
絶妙なブレンドによって、ファンタジーとリアリティを両立させ、多様な作品を創りあげることは可能だということを、今一度再確認したいです。
もちろん幻想100%の作品だって、誰かに迷惑をかけない限り、生まれ続ければいいと考えます。